高野の証空上人京へ上りけるに
一言でいうと
仏教用語で怒鳴っても通じず、言い過ぎたと気づいて逃げた上人の世間知らずな純真さを、作者は尊いと見ている。
原文
高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、
馬に乗りたる女の行き合ひたりけるが、口引きける男、
悪しく引きて、聖の馬を堀へ落してげり。
聖、いと腹悪しくとがめて、
「こは、希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、
比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、
優婆塞より優婆夷は劣れり。
かくのごとくの優婆夷などの身にて、
比丘を堀へ蹴入れさする、
未曾有の悪行なり」と言はれければ、
口引きの男、
「いかに仰せらるるやらん。えこそ聞き知らね」と言ふに、
上人、なほ息まきて、
「何といふぞ、非修非学の男」と荒らかに言ひて、
「きはまりなき放言しつ」と思ひける気色にて、
馬引き返して、逃げられにけり。
尊かりける諍ひなるべし。
現代語訳
高野山の証空上人が京へ上る途中、細い道で馬に乗った女と行き合った。その馬を引く男が手綱をうまく扱えず、上人の馬を堀へ落としてしまった。上人はひどく腹を立てて責め、「これは何という、とんでもない乱暴だ。仏の四種の弟子はな、比丘(男性の出家者)より比丘尼(女性の出家者)が下であり、比丘尼より優婆塞(男性の在家信者)が下、優婆塞より優婆夷(女性の在家信者)が下なのだ。そのような優婆夷の身でありながら、比丘を堀へ蹴り落とさせるとは、前代未聞の悪行である」と言われた。馬を引いていた男が「何をおっしゃっているのでしょうか、さっぱりわかりません」と言うと、上人はいっそう息巻き、「何を言うか、この、学びも修行もしていない男め」と荒々しく言った。しかし、自分でも「この上なくひどい暴言を吐いてしまった」と思った様子で、馬を引き返し、逃げてしまわれた。まことに尊い口論だったというべきだろう。