達人の人を見る眼は少しも誤る所あるべからず
一言でいうと
人の反応は千差万別だが、達人の前では、わかったふりも疑いもすべて見抜かれる。
原文
達人の人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
たとへば、ある人の、世に虚言をかまへ出だして、
人を謀ることあらんに、素直にまことと思ひて、
言ふままに謀らるる人あり。
あまりに深く信をおこして、なほわづらはしく、
虚言を心得添ふる人あり。
また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。
また、いささかおぼつかなく思えて、頼むにもあらず、
頼まずもあらで、案じゐたる人あり。
また、まことしくは思えねども、
「人の言ふことなれば、さもあらん」とて、
やみぬる人もあり。
また、さまざまに推し、心得たるよしして、
かしこげにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、
つやつや知らぬ人あり。
また、推し出だして、
「あはれ、さるめり」と思ひながら、
「なほ誤りもこそあれ」と怪しむ人あり。
また、「異なるやうもなかりけり」と、
手を打ちて笑ふ人あり。
また、心得たれども、「知れり」とも言はず、
おぼつかなからぬは、とかくのことなく、
知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。
また、この虚言の本意を始めより心得て、
少しもあざむかず、
かまへ出だしたる人と同じ心になりて、
力を合はする人あり。
愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、
このさまざまの得たる所、言葉にても顔にても、
隠れなく知られぬべし。
まして、明らかならん人の、惑へるわれらを見んこと、
掌の上の物を見んがごとし。
ただし、かやうの推し量りにて、
仏法までをなずらへ言ふべきにはあら。
現代語訳
道理に通じた人が人を見る目には、少しも誤りがない。たとえば、ある人がもっともらしいうそを作り、人をだまそうとしたとする。それを素直に本当だと思い、言われるままにだまされる人がいる。あまりに深く信じ込み、さらに余計な解釈までうそに付け加える人もいる。何とも思わず、気にも留めない人もいる。少し疑わしく思い、信じるでも信じないでもなく考え込む人もいる。本当らしくは思えないが、「人が言うのだから、そういうこともあるのだろう」と、そのまま済ませる人もいる。さまざまに推測して事情を理解したふりをし、賢そうにうなずいて微笑んでいながら、実はまったくわかっていない人もいる。推測で「ああ、きっとそうなのだ」と思いながらも、「それでも間違いがあるかもしれない」と疑う人もいる。「別に変わった事情などなかったのだ」と手を打って笑う人もいる。真相を理解していても、「知っている」とは言わず、疑問も抱かず、とやかく言うこともなく、知らない人と同じようにやり過ごす人もいる。また、このうその狙いを初めから理解し、少しもだまされず、うそを仕組んだ人と同じ考えになって力を貸す人もいる。愚者同士の戯れでさえ、物事のわかる人の前では、それぞれがどこまで理解しているかが、言葉にも顔にも現れ、隠し通すことはできない。まして、迷っている私たちを悟りの明らかな人が見れば、手のひらの上の物を見るように、すべて見通されるだろう。ただし、このような人間の推量を、そのまま仏法になぞらえて語ってよいわけではない。
全244段の目次
底本: 烏丸光広本『徒然草』校訂本文(やたがらすナビ・CC BY-SA 4.0)